バッドタイミング・グッドニュース
昭和46年卒
佐藤 喜信
昭利42年の入学試験は、バリケードで封鎖された会場で行われました。 当時は学生運動の真っ只中で、入学後も農学部入口で当時柔道部の4年生の後巻選手が、顔面血だらけで校舎を守っていました。2年前より運動部の入学が厳しくなり、同年のレスリング部でも3人の高校チャンピオンが涙を飲みました。 入学後、団体戦に出場の機会を与えられ、全ての大会に優勝して美酒を味わいましたが、2年の時は1部リーグの最下位となり、入替戦では国士館に敗れて屈唇を味わうことになりました。当時も卒業後も、OBからは「お前の代が一番弱かった」が挨拶代わりになっていました。優秀な選手が入学できたらと、体育会のあり方などを考える暇もなく、私たちの使命は「1部に昇格すること」でした。進級、卒業が厳しくなった中で、また、小人数で部を運営するには、上下関係の厳しさより自立した生活への変革を余儀なくされ、諸先輩には「最近の若者は・・」と言われたのを覚えています。戦前と戦後生まれとの狭間だったのかも知れません。4年の時主将になり、少ない逸材でそれぞれの個性を伸ばすことが、与えられた使命とも感じました。現在はブロック制ですが、最後のリーグ戦で2部優勝し、念願の1部復帰を果たしました。 何年か前、アジア大会の中継があり、日本のレベルが落ちているのを見たとき、私が1年の時に4年生だった河内先輩みたいな、根性のタックルを伝承しなければとつくづく思いました。大技も大事ですが、基本の攻撃ができておらず、守りのレスリングが日本の主流だと聞くと、しばらく金メダルはないと思いましたが、そんな悪い想像が当たるのもしいものです。 2年の時、数年後に国体が開催されるとのことで、鹿児島県より招待を受けました。中学生に見本をとのことで、柳田先輩など軽量級が主体となり、各地域における模範の技の普及に一役買いました。県の教育関係者は全てに前向きで、不毛の地からその後のオリンピックで金メダル 選手が生まれたのも、熱意があったからこそだと感銘致しております。 現役の学生においては今何をすべきか、どこを鎩えればいいのか自分 との戦いです。たった4年間だけですので、個性を伸ばす努力をし、梅いのないように頑張ってください。