驚嘆することばかりだった憧れの大学生活
昭和51年卒
金子博
昭和47年4月、明治大学に入学。ここから私の明治大学レスリング部員としての生活がスタートすることとなります。 入学の年の3月に、春の合宿のスタートとのことで「集合」がかかり、一緒にレスリング部に入部する友人と二人で、不安と期待に胸膨らませ、生田の寮に向かったのがついこの間の事のように思い出されます。工学部正門前の職員に、レスリング部の寮はと尋ねると、「右に曲がった先のボロな建物だよ」と教えられました。「ボロな建物とは?」などと考えながら歩いて行くと、一目見てそのとおりとわかる建物がありました。正面玄関から中に入ると、まるで洞に入ったのと同じように暗くて何も見えず、目が慣れるのに少々の時間を要しました。恐る恐る中に入ると、大きな段差があって転びそうになったことを、今でも鮮明に記憶しています。そして、左右の部屋にいる数人の先輩が、布団にくるまってゴロゴロしている様は、異様としか思えませんでした。
初めて親元を離れ、憧れの大学生活スタートの場としてはあまりにも強烈で、ただただ驚嘆 の一言でしかありませんでした。 南都屋、北部屋、主将部屋、テレビ部屋、台所、食堂等全てがものすごく、窓の半分はダンボールでとめられており、残りもガラスのあるところは少ないくらいであったと記憶しています。夏休みなどでちょっと長く寮を空けると、部屋の畳にはキノコや雑草が生えてしまうこともありました。台所には大きなネズミやゴキブリが走り回っており、特にこの大きなネズミにはよく驚かされました。風呂は毎日1年生が新で沸かさなければならず、とても大変であった記憶があります。慣れない新割りをしていて破片が顔に当たり怪我をしたり、燃す粉が足らなくなると自分たちで探してきて風呂を沸かしました。これも大変な仕事で、机や椅子、寮の壁板まで燃やしてしまいました。 親元を離れて厳しい練習に耐え、一人で風呂の火を見ていると、本当にせつなく、寂しい気持ちになったことが思い出されます。奥の食堂は窓が全てなく、雨が降れば吹き込みが激しく、雪が降れば雪が積もってしまった記憶があります。夕食のメニューに工夫がたりないと叱られた こと、風呂がぬるすぎて叱られたこと、洗濯物が乾かなかったり、なくなってしまったりで叱られたこと、試合や合宿の納会で、飲み過ぎて便所で寝てしまい、一晩明かしたこと、練習が休みで門限のない電話当番の苦しかったことなど、1年生の1年間の旧合宿所での生活は忘れることのできない思い出がいっぱいです。今振り返れば全て懐かしく、素晴しい思い出であり、この1年間の生活が大学生として、レスリング部員として、生きていく力をしっかり身につけさせてくれたことは間違いのないことでありました。 2年生からは新しい合宿所が完成し、食堂や風呂も新しくなり、学年も上になったことも手伝って、なかなか快適で楽しい大学生活であった と記憶しています。学業については相当いい加減でしたが、先輩の指導よろしく、どの先生が単位を取りやすいのかなどの情報をもとに教科履修をしたり、また、学生運動のため二度の学校閉鎖(ロックアウト)もあり、ほとんど学業もせず見事に4年間で卒業という離れ業を成し遂げ、さらに教員免許まで取得したのですから我ながらびっくりです。 レスリングの方は強い先輩がたくさんおり、1年、2年時は大学生活に慣れることで精一杯であり、実力不足もあって、なかなか思うような成積は上げられませんでした。また、新入生での夏合宿は、地獄のような猛練習という象囲気やイメージだけでまいってしまった状態でしたが、 3年、4年と学年が進むにつれて上級生としての自覚も芽生え、リーグ戦や王座決定戦などの目標をしっかり見据えて頑張った記憶があります。上級生になってからは、夏合宿等でも自分なりの目標が持て、充実した合宿にする事ができるようになりました。ただ減量や怪我などにより、満足のいく結果がなかなか残せなかったため、その悔しさがバネとなり、卒業後も長い間レスリング競技を楽しめたことは、私にとって本当に幸せな競技生活であったと思います。