昭和21年 迷える子羊には渡りに舟の明大受験

我が学生レスリングの思い出

昭和28年卒

田口美智留

1、レスリングとの出合い

 私が過ごした戦時中の中学校では、体育というような洒落た授業はなかった。帝国陸軍より派遣されたややロートルの配属将校にしごかれながら、教練と三八歩兵銃を模した木銃での「構え」「突き」「直れ」の銃剣術の練習に明け暮れる毎回だった。ただし柔道と剣道は、小学校の頃より今で言うところの必修科目であったから週に何時間か必ずあり、盛んに奨励されていたこともあって対校戦の華だったことを覚えている。
 
 こうした環境でいざ大学入試を迎えたわけだが、私は母の心配をよそに唯ウロウロするのみ。学徒動員によって勉強のチャンスに恵まれなかったばかりか、むしろこれを悪い方のチャンスとばかりに勉学を放棄し、ただ本能のままに鬼畜米英と空拳を振り回していた自分が悪いのである。その内、母がいずれかのつてで「明治の“運動部のキャプテン”で町田さんという人を紹介してもらったから、明治を受験しろ」と言ってきた。迷える子羊としては渡りに舟。この“キャプテン”が何のキャプテンかも知らずにお逢いしたら、小柄ながらもがっちりとした体で、風貌はややヒゲは濃いものの目は優しい感じ。そして、レスリング部のキャプテンとのこと。ははぁー。レスリングと言われてもピンとはこない。なんせ昭和22年のことだ。
 
 ここで、当時の大学の制度を簡単こ説明しておく。
予科3年、学部3年の6年間が普通で、予科とは大学生としての基礎学力を全般的に更に高める為の教養課程であり、予科を終了してから改めてそれぞれの学部を選んで受験することになる。無論、このとき他大学を受験する事も、本人の学力に応じて自由であった。一方、大学には専門部という部門があり、これはいきなり自分で選んだ専門の学業を3年間で修得するという、いわば専門学校的存在であった。確か、かの社会党から総理大臣になった村山総理も、明治大学専門部政治経済学科を卒業の先輩である。
 
 前置きが長すぎたが、そろそろレスリング部入部当時の話に進むとしよう。今はなき駿河台の本校地下に、我が懐かしのレスリング道場と部室があった。確かその上は52、55講堂という広い階段教室になっていたと思う。地下といっても天井は高く、ぐるりと巡らした大きな柵の内側は一段高い板張りになっており、ここが道場だ。ほぼ円形をしていて、8mのマットを敷いても尚四隅に充分なスペースがあり、この魔の道場の約半周にわたる部分に、2階建ての各クラブの部室があった。
 
 我がレスリング部の部室はその1階の一番左端にあり、トイレを挟んで左にボクシング部、右に空手部があった。運動部だけでなく、2階の一部にはマンドリンクラブの部室もあり、時折古賀メロディが聞こえて来る事もあった。地下室の部室といっても、駿河台はお茶の水駅よりダラダラと坂を下ってくるので、記念館面左側の正門より入ると確かにこの道場は地下となるが、建物自体が坂の途中にあるため部室の窓から表を見ることもできた。そこにはさほど広くないダラダラ道があり、向かいには戦前から多くの先輩達も御世話になった越後屋質店や、その先にある増淵薬局等が望めた。部室に入って右側に遠山コーチの写真、その下には小田パンツ店寄贈の大鏡が置かれ、左側の壁には部長・佐々木吉郎、顧問・小島憲、竹内久隆等、お歴々の名札かズラリと並んでいるといった次第であった。

昭和22年 1年365日の内、350日をレスリングに明け暮れる

当時のレスリング部は水谷監督、町田キャプテン、伊坂マネージャー、矢田道場取り締まりの他、トンピのマントを着た変な人や全身バネのような角刈りのオッサン(今考えると、それは竹内(兄)先輩であり、村田先輩であった)など、この人達を含めてわずか5~6人の部であり、そこに新入部員として我々が大挙入部したのであった。

 今それらの仲間の名前を思い出して列挙すると、まず大阪の小田原先生の教え子である大阪市立中学から井削、富永、西村、藤田(兄)、畑中、大野、山川、九州から宮崎、和泉、若杉、東京から今井(一)、田口、押野、府川、新潟から霜鳥等である。これら15名の内1年で消えた者が4名おり、専門部で終わった人もいたため、実質6年間を共に過ごした仲間は私を含めてわずか4名だった。

 1年365日の内、なんと350日近くが練習だ、試合だ、やれ合宿だと、まったく息を抜く暇もない毎日で、しかも当時はろくに食い物もなかった。主食の米は配給制度で1日2合3勺。それもひと月の内せいぜい20日分あれば多い方で、あとは農家を歩いて芋や粉を分けて貰った自己調達品で飢えを凌いだ時代だ。

 地方からの部員は全員、当時京成電鉄の堀切菖蒲園にあった大学の「白雲寮」に入っており、正にその食生活のひどさは想像に余りあるものと思われた。自分の家から通っていた私などはまだ幸せな方で、母が工面した銀シャリの弁当を持って行くことができた。ところが、この弁当をうっかり部室に持って行こうものなら大変だった。たちまち白雲仲間に見つかり、薄手ではあるが今でいうB5版ぐらいの大きさの弁当箱の中は見事に6等分され、本人も6分の1しか食えないといった笑えない現実があった。

昭和23年 全日本選手権大会で富永、霜鳥の両名優勝

2、野尻湖畔での初の夏合宿

 なんせ大学に入って初めての合宿である。
早速各自1日2合3勺の米10日分を携えて勇躍、野尻湖に向かった。この野尻湖の合宿所は、どういう訳か仲問の1年生の霜鳥が探してきた。名前は忘れたが、湖畔から離れたボロボロの2階建て一軒家の旅館で、1階が入り口と厨房、それに小判型の薪焚きの小さな風呂があった。階段を上がった右手がやや広い部屋で、ここが我々部員の居住する大部屋であり、左手が大先輩達の居住部屋となっていた。
 
 練習場は近くの学校の体育館を借り、マットではなく畳の上に学校から持って行ったキャンバス(と言っても現在のような代物ではなく、軍隊払い下げのゴツゴツとした綿帆布)を敷いて練習を行った。畳の硬さと荒い布目のキャンバスのせいで顔、肩、膝と毎日擦り傷だらけ。毎晩赤チンを塗っても、翌日の練習で再び“因幡の白ウサギ”のようにベロリと皮が剥けてしまう。おまけに硬い畳の上でのブリッジの練習は、ヒリヒリを通り越してガンガンと頭が痛み、大きなフケがボサッと抜けてくる。腹は減るし、体は痛いしと、初めての憧れの湖畔の宿は、あぁー惨めなるかな……。

  それに比べ、階段の反対側の部屋では、合宿に来られた清水、鎌田、竹内、村田先輩達が盃を重ねている様子。我々は持参の1日2合3勺の米を旅館で調理してもらっているが、ろくなおかずもなく、1食分のドンブリ軽く1杯の飯を、良く噛んで食べるか、またはガツガツと早く食べた方か満腹感を得られるのかと、いつも議論の毎日だった。食後に表へ飛び出し、近所の果物屋に飛び込んで青リンゴを齧って腹の足しにしたこともある。
 
 ある時、近くの農学校から大八車いっぱいのカボチャを仕入れて来て、昼食代わりに大釜で茹でたことがある。「さあ!今日は腹いっぱい食え」と言われ、我ら一同このカボチャの大群に向かってひたすら突き進んだ。寒冷地のカボチャは美味であったが、塩味だけの調理であり所詮カボチャはカボチャ。丼で山盛り2杯も食べると些かゲンナリしてきたが、見守る先輩達から「日頃、腹が減った、腹が減ったとうるさいお前らは、文句を言わずにもっと食え」と言われ、仲間内で一番腹減らしの和泉がやり玉に上がり、3杯目の挑戦の命を受けた。しかし、さすかの彼も途中でギプアップ。回りの先輩達から「謝れ」と言われ、丼を両手で頭上に捧げ「カボチャさん、カボチャさん。御免なさい」と、彼は苦しげな表情でついに謝った。

〈昭和23年度最上級生部員〉
 伊坂孝 (フライ級)
 町田聡 (バンタム級)
 後藤一明(フェザー級)

昭和25年 全日本学生選手権大会が今年度より開催される

3、学連創設、そして卒業

 私が専門部の3年の時、先代マネージャー伊坂さんが卒業、先代キャプテン矢田さんは学部進学と、共に我々の年代に主将主務を譲り、部内において我々を静かに見守る立場に身を引かれた為、ここに新キャプテン井削と新マネージャー田口が誕生した。普通、各大学のキャプテン、マネージャーは最高学年から選ばれるものであって、レスリング経験3年目の私達は学連内でも異例であったが、他大学の連中はそうとは知らなかった。もっとも富永、霜鳥両名が全日本チャンピオンとなり、実力的にも他大学にひけを取らない存在であったことも影響していたようだ。
 
 当時の学連は当番校制度であり、毎年傘下大学のマネージャーが会計帳簿と試合用のゴングやトス、及び旗を持って引き継ぎをしていた。学連といっても名ばかりで、リーグ戦の他は何の活動もしておらず無力同然。一方レスリング協会は八田会長始め、猪狩、西出、林(政)、匂坂氏と、慶応の戸張氏以外はほとんどが早稲田OBで占められており、他大学の不満は募るばかり。もっともこの時、明治の水谷、慶応の菊間、専修の畠山、の3氏は反八田派”としてことごとく対立していた。別にこの風調に迎合したわけではないが、学連の中にも協会幹部の偏った役員構成に不満をもつ者がおり、当時の日本アマチュアレスリング協会に対して改革要求の抗議文を提出した。これを機に、有名無実であった学生連盟の再編成も急務とされた。

 当時、関東のリーグ戦は早大、慶大、明大、専大、立大、法大、中大、拓大、日大、日体大の参加で復興目覚ましかったが、前述のごとく協会のリーダーシップは早大一色であり、他校のOBはまったく入り込む余地がなく、何かと不都合を生じた。そして私が中心となり、早大・服部、慶大・西谷、中大・和田の主力校のマネージャーが音頭を取り、関東学生レスリング連盟の名のもとに各校キャプテンとマネージャーが連名で署名。しかも、これに血判を押した血判抗議文を作り、日本アマチュアレスリング協会八田会長が、当時、神宮近くに経営されていた外苑ホテルに群をなして押し掛けた。

 実はその前日、私の独断による効果狙いで、運動部関係の先輩がいるM新聞に、抗議内容と決行日を密かに漏らしていた。当日、M新聞の一隅にこれが記事になって発表されたため、当然、外苑ホテルには協会幹部の方が参集しており、学連の抗議文を受け取ると同時に「一体、君達のこの行動はなんだ?第一、学連の会長か誰であるか知っているのか?会長の許可を得て来たのか?」と言う。
「いや、我々は学連委員として、また各大学の代表として、それぞれの名において血判まで押して持って来たのです」
「それでは、学連の会長は誰か知っているのか?」
「知りません」
「学連の会長も八田一朗であるぞ!」
ウヘー、知らなかった。不覚も不覚。どこの大学でも、戦後ポツポツと復員して来たOBにより部が復活し、メンバー不足ながらリーグ戦に参加する事でいっぱいだったから、そんな古い学連規約など見たことも聞いたこともない。この時初めて、ワラ半紙にガリ版刷りの規約を見せられた。確かに「関東学生レスリング連盟会長八田一朗」となっている。

 何と私達は、八田さんから八田さんへ抗議の血判状を突きつけた事になってしまった。しかし、内容的には一応の了解を得ることができ、後日、各大学から協会へ理事を推薦し、良い方向へと進展した。
 
 当日は得意になり、各大学の方々とも別れて駿河合の部室に戻って来ると、サアー大変。部室の中が新聞記者で溢れている。
「君が田口か?」
「ハアー、そうです」
「君はプレスコード違反である」
「何ですか、それは?」
「君は大学生のくせにプレスコードも知らないのか!?」
 何と言われても私の知っているコードは、電気かアイロンのコードぐらいである。狭い部室は彼らの煙草の煙と罵声で充満。一時は手のつけようもない程荒れ模様。「知らないならしょうかない、敦えてやろう」ということで聞くと、マッカーサー司令部占領軍第何条とかに報道に関する制約があり、私はそのプレスコードに違反して、1社だけに情報を漏らした罪に該当するという訳である。

〈昭和25年度最上級生部員〉
 今井 勤(フライ級)
 岡本平治(バンタム級)
 伊藤信夫(ミドル級)

昭和27年 血判状事件で強く抱いた学生連盟再編の必要性

 戦時中に中学2年から学徒動員でお国のために引っ張られ、戦後焼け跡の中から大学に入った時代だ。もともと余り好きでない勉強をろくにせずに来た私は、今は芋を喰いながらレスリングをやっているんだ。それなのにそんなもの知る訳がない。第一そんなマッカーサーの法に触れたなら、MPでも連れてくればいいのに……。とにかく私は「知らない」の一点張りであったため、遂にあきれた記者連はブツブツ言いながら引き上げていった。

 こんな経過が、学生連盟再編成の必要性を私に一段と強く抱かせ、再編というよりも新たに作る気持ちで、前記の各校マネージャー氏と共に他競技の学連規約等を参考にし、新しい関東学生レスリング連盟の規約作成に取りかかった。たまたま当時慶応の部長をしておられた永沢国雄先生が法律の大家であった事を幸いに、再三先生の教えを受け、始めに関東学連を作り、続いて関西にも呼びかけて全日本学生レスリング連盟の規約作成まで手を染めていったのである。その後、東北学院大学の参加を得て、関東の名称から東日本学生レスリング連盟と改称。関西も西日本学生連盟と改称された。

 学連の理事も、各校より協会理事以外のOBに1名ずつ就任して頂き、委員には各校のキャプテン、マネージャーがそれぞれの役割を分担、会長には完の永沢先生をお願いした。また、委員長には私自身が就任し、自らが学連の指揮をとり、リーグ戦はもとより学生王座決定戦を東日本、西日本を結ぶ全日本学連の行事として、発展させていったのである。

 あの懐かしの青山レスリング会館を有料で満席にしたこともある。自らも選手になったり、レフリーになったりの大活躍であった当時の思い出の一つだ。また、リーグ戦の切符が何かの手違いで間に合わず、学連の名において趣意を書き、募金箱を置いたところ、切符の売り上げ目算よりも余計に収入を得たという笑えないこともあった。

 当時の忘れられない人に、協会の実務をされていた早大OBの匂坂秀雄先輩がいらっしゃる。また、常時学生レスリング連盟の後援をしてくださっていた日刊スポーツ新聞の、確か事業部だったと思われるが、そこにおられた葦沢さんには、新橋の事務所に私か直接お願いに行って、プログラムから入場券の制作まで指導をして頂いた。

 一方、記事を書き、レスリングの発展に多大のご支援を頂いた同紙の記者をしていた早大OBの倉岡さんや、学連の為、レスリングの為、熱血を注いて実技指導をしてくださった慶大OBで、三共製薬に勤務しておられた渡辺さん等々今日の学連誕生までには内外の多くの人々、特に血判まで押して正に血を分け合った学連の仲間達から、真摯の努力とご協力を賜つた事は、私の人生の中でも望外の幸せであり、今でも胸が熱くなる。

 私はこの間の4年間、即ち専門部3年時から学部での3年の4年間にわたって明治のマネージャーであると同時に、学連の委員長を務めた。そして昭和28年3月、無事に明治大学最後の旧制商学部を卒業、というか学生レスリングから卒業したのである。

〈昭和27年度最上級生部員〉
 井削光司(バンタム級)
 西村明(バンタム級)
 浅川直良(フェザー級)
 富水利三郎(フェザー級)
 霜鳥武雄(ライト級)
 酒井茂利(ライト級)
 田口美智留(ライト級)
 藤田良一(ライト級)
 今井一夫(ウェルター級)
 門屋賢悟(ミドル級)