昭和37年 部員全員が張りつめていた中大との戦い

多くのメダリストを育てた青山レスリング会館

昭和38年卒

若林 益吉

多くのOBは、それぞれの活躍した時期の戦歴や思い出を書くことと思いますので、視点を変えて港区北青山にあった青山レスリング会館にっ いて書きます。 いつ、どなたの尽力で建てられたかは前のOBに尋ねなければなりません。位置的には秩父宮ラグビー場の西隣にあって、北には神宮球場が歩いて数分の所にありました。当時はもう相当に古く、雨もりのするモルタルの会館で、敷地内には管理する老夫・の家と外トイレがありました。 ここでは主に春のリーグ戦、秋の王座戦、学生選手権、グレコ戦、新人戦が行われました。関東1部、2部の試合では、当時の上位校(私見です)である明中日専早慶が対戦し、しのぎを削っていました。私の在籍中にはこのうちの何かが2部に落ち、2部からどこかが上って戦っていた と思います。 その中で春のリーグ戦、特に対中大戦には力が入っていました。前日には神宮球場隣の日本青年会館に泊っていたし、ある年には世田谷の笠原監督宅に泊り込んで食事を含め、至れり尽せりのもてなしを笠原夫人 より受けたこともあります。とにかく、中大戦は選手も他の部員もかなり張りつめた状況でした。 他の試合の時は青山通りのスミダ食堂で、計量後の試合開始時間まで食事と休憩をしていました。他校も近所でそれぞれの食堂、レストランを利用していました。青山レスリング会館は、我々が卒業して数年後、耐用できなくなって解体されました。 ここからオリンピックや世界選手権で活躍した多くのメダリストが巣立っていったよき時代であり、偶然にもその黄金期とオーバーラップする時期にレスリングに関われたことを振り返ると、私もよき青春時代を過したなと、むしろ郷愁を感じます。