思い出話の尽きない4年に一度の同期会
昭和42年卒
新荘建彦
昭和38年4月に入学したレスリング部員は、柏崎(秋田県)、遠藤(宮城県)、天野(大阪府)、育藤・長谷川・藤井・八木・益本・新荘(山口県)、細沢・石橋(広島県)、殿村(福岡県)の12人ですが、特徴的なのは山県 出身者が多いことです。 入学した時も現在も思っていることですが、1年生の時は何かあれば全体責任で先輩から怒られ、ビンタをもらったものです。10人は18歳ですから当然のこととして受け取っていたと思いますが、当時27歳の斉藤、 25歳の細沢は、年下の19歳の人にビンタをもらい、私たちと同様に「ありがとうございました」と言うことに抵抗があったことだろうと思います。ですが愚痴一つ言わず、私たちと同じ扱いを受け、行動を共にする。 実に素晴しい根性の持ち主であったと思っています。風呂当番の時は「お願いします」で先輩の背中をすりはじめ、終われば「ありがとうございました」の挨拶をし、誠に素晴しい人物であったと感心すると共に、彼らの存在が卒業後の私はもちろん、他の同期生の人生においても、大いに勇気を与えてくれ、役立っていることと思います。 私の家は大学に進学できるような家庭ではなく、小さな雑貨店と豆腐 製造販売を営んでいましたので、小学校の頃から朝は新聞配達、帰れば山へ木を取りに行って新を作ったり、年末には3日くらい寝ないで石日で大豆を根いたりしていました。そのお陰で力も強くなったように思います。6年生の頃には懸理を23回くらいはやっていましたし、ソフトボールもランニングホームランをよく打っていた覚えがあります。中学校を卒業したら就職するつもりが高等学校に進学し、高等学校を卒業したら就職するつもりが大学に進学し、しかも子供の頃から聞いていた東京 六大学の明治大学に進学し、私の人生が変わりました。プロレス以外のアマチュアレスリングは、同じ由学町出身の岩岡さんが国体で3位になられたことで知りましたが、斉藤道場の7藤感先生に誘われ、高校2年の4月から始めました。レスリングは「ねじ伏せて両肩を着ければ勝ちになる」と聞いて始めたのですが、小学校から習っている同級生に子供扱いにされていました。私は小学校の頃から父親に、「勉強しなさい」と言われた覚えはありませんが、「喧解をして負けるような者は家に帰るな。何でもやる以上は日本一になれ」と言われたことはハッキリと覚えています。そのせいか、私自身が大会で優勝する喜び よりも、父親が喜んでくれる顔を見るのが楽しみでやっていたように思います。そして、同じやるならオリンピックに出られるくらいに頑張って、父親を喜ばせてやろうという夢ももっていました。 父親が応援に来てくれたのは、昭和38年10月の山口国体フェザー級 (フリー)決勝で、渡辺選手にフォール負けした時だけでしたが、それが私の試合を見た最初で最後となり、後期試験中の12月2日に45歳で亡くなりました。その後は働くつもりで家に帰っていましたし、経営学部からも原級通知をもらっていたのですが、他力に動かされて農学部の編入試験を受け、2年に進級しました。 しかし、2年になったものの喜んでくれる人がいなくなったし、経済的理由もあって精神を集中して全力を傾けるまでには至らなかったように思います。その後卒業するまで先輩方にお世話になりながら、恩返しできるような成繢もあがらず、大変申し訳なく思っております。 同期生は4年に一度集まっていますが、毎回、1年の時の苦しかった けれども、今は楽しい思い出となっている話を大㷌同伴で楽しんでいます。例えば、新人歓迎会で飲んだこともない酒(合成酒)を、1升5合くらい飲んですごく苦しかったことや、二日酔いでありながらショウを見に行ったこと、先輩が酔っぱらって夜中に帰り、その上酒を買いに行かされ、店の人が起きないので「電報です」と嘘を言って店を開けて貰ったこと、雨期時期に洗濯物を乾かすためボイラー室に入り、汗びっしょりになったこと、全体責任でビンタを張られたこと等たくさんあります が、現在、苦しいことや厳しいことから逃げることなく頑張れるのも、先輩方に指導して頂いたお陰だと感謝しています。