昭和46年 環境を整え、栄養をつけさせるにはお金が必要

笠原先生の想い出・・・ある夏の日のOB訪問

昭和47年卒

松本 太郎

卒業して今年で丁度30年。今にして思えば柳田先輩や後輩の和田選手、宮原選手、その他あまたの有名選手と4年間寝食を共にしたことが、夢としか思われません。 私が1年生になった昭和43年は、前年度1部リーグ優勝の明大が、あれよあれよという間に最下位となり、入替戦まで国士館に敗れ、遂には 2部落ちするという名門明大レスリング部史上、また監督・現役にとっても苦難の始まりの年でありました。この1年間のことは、今でも鮮明に思い出されます。 さて、私は東京オリンピック・ナショナルコーチの笠原茂先生に憧れ、秋田高校から単身明大レスリング部に入りました。高校時代に笠原先生の話から想像していたクラブ生活と、実際のあの合宿所生活とはいささか隔たりがありました。リーグ戦の終わった6月末、クラブをやめて退学しようかと思い、学生相談室へ行ったことがありました。そのことが笠原先生の耳に入り、夏の富山合宿の時、先生の部屋に呼ばれ「太郎君はねェ、勉強できる環境のときはレスリングをやったり、レスリングに最適な環境のときは勉強したいなんてねェ、一生どこへ行っても中途半端になるよ」と諭されました。 道場や合宿所にいるときの先生は、確かに初対面の印象とは違う人でした。しかし、二人きりになると最初のイメージ通りの笠原先生でありました。そのギャップが何ともユニークで、どちらが本当の先生なのか 戸惑いながらも、先ずはついて行きました。 私は、3年生になると48キロまで体重が落ちなくなり、マネージャーを志願しました。その時先生は、「太郎君ねエ、クラブを強くすることは簡単ですよ。強い選手をいっぱい集めて最高の環境を与え、栄養をつけさせるんですよ。そのためにはお金が必要なんですよ。ついて来なさい」 といって、夏の土曜日の昼過ぎ、生田を出てOBへの挨拶廻りに出掛けました。赤羽、川口方面でした。 夜になるとお酒が出されました。先生は、次のOB宅に行く途中に「太郎君、見てなさいよ」といって、暗がりの道端で口に二本指を突っ込んで前のアルコールを全部吐き、またOB廻りを続けました。「ねェ、太郎君 ねェ、お金を頂くことは大変なことなんだよ」と言ってました。その時 先生、37歳。 翌路和46年春、私は体育課の早て女課長から強引過ぎると注意を受けながらも、全部員と力を合わせ、今は亡き石田選手を中大の手中から土壇場で横取りしました。結果、高校チャンピオン3名を含む9名が入学しました。翌昭和47年、熊坂主将は彼等を戦力として王座優勝を果たし、 4年目にして遂に名門復活を成し遂げてくれました。 しかし、既に私はその場面におりませんでした。諸先輩には肩身が狭く、笠原先生には苦しい時に現役選手としてお役に立てなかった事を、今でも申し訳なく思っております。