昭和52年 今も後輩達と酒を酌み交わすのが楽しみのひとつ

生田で過ごした青春時代

昭和53年卒

八木光

私は現在、千葉県私立の八千代松陰高校で社会科の教員をしております。このたびの明治大学体育会レスリング部創立70周年、誠におめでとうございます。 顧みれば昭和49年3月、群馬県渋川の片田舎から若干19歳(早くから老け顔だったようです)の私は、神奈川県川崎市生田の名門!明治大学体育会レスリング部合宿所に入寮しました。ふと当時を振り返ると、あの鉄筋5階建ての2階と5階で過ごした合宿所の規律厳しい生活は、私にとって終生忘れることのできない、良き思い出として胸に深く刻み込まれております。また、近所のお世話になった食堂や焼鳥『安ちゃん』は元気だろうかなどと、当時バカ騒ぎしたことが楽しく思い出され、本当に生田は良かったな〜と思います。 何はともあれ、長くもあり短かった4年間は本当に辛く、楽しいものでしたが、何度逃げ出そうかと考えたりもしたものでした。しかし、学年が上がるにつれて先輩としての自覚が芽生え、後輩に対しては「辛い ことはよき思い出として残るんだからガンバレ」などとのたまったことを、昨日のことのように覚えており、今もその後輩たちと酒を酌み交わすのが楽しみの一つとなっております (焼鳥『安ちゃん』が本当に懐かしく思われます。お世話になりました)。 また、最上級生になり、笠原先生(故人)から「学連委員長をせよ」と仰せつかり、自分にとってこのことが転機となり、「これはしっかりせねば」という自覚が、私の進むべき将来(教員)を決定したと思っています。現役選手としてよりも、学連委員長として大会に望んだことのほうが、常に緊張の連続で大会運営を仕切っていました(危なっかしい場面も多々ありました)が、そうした行動、仕草を傍らで温かく見守ってくれた笠原 先生が、自分の中でどれだけ心強かったことか。まさに笠原先生なくしては語ることのできない大学レスリング生活でした。 不肖、教員となって今日まで、我が高校からも母校の明治大学には数多くの生徒を送っていますが、ここ最近は我が校も少子化減少の煽りを受け、また、スポーツの多様化に伴い、部員の確保が思うようにいかないのが実情です(お許しいただきたい)。 21世紀の日本は不況経済に始まり、先行き暗いことばかりですが、我が明治大学体育会レスリング部現役・OBにおいては、常に前向きに現実を直視し、さらなる発展を目指し、皆で力を合わせて頑張っていきましょう。田部井監督がんばれ!