昭和53年 目の当たりに見せつけられた、子供と大人の違い

一味違った青春の思い出

昭和54年卒

田中量

昭利50年3月、季節の変わり目。春うららかな季節の中、私は期待と不安な気持ちに駆られながら青春の第一歩を踏み出すべく、胸をワクワクさせて新潟駅から電車に揺られて上京したことが、昨日のことのように懐かしく思い出されます。同じような輩が当時は4人おりました(部員の出入りが激しく、最終的には5人に落ち着きました)。 学業とスポーツの両立を念頭に精進するはずでしたが、なかなか人生 思うようにいかないものですねー。レスリング生活での日常、特に練習においては一つ一つが内容の濃い動作の連続でした。一糸乱れぬ準備運動(手の指先、足の伸びが少しでもずれていようものなら、夜のミーティングが待っている)は、高校とまったく違い、個人の自覚のもとに練習を行う大学生は、「さすが!」と思わせるものがあり、子供と大人の違いのすごさを目の当たりに見せつけられた一面でした(あとで他大学の部員達に聞くと、明治の準備運動と整理運動は特別であったらしい)。 さらに、朝練習のロードワークのコースは急幻配の坂道が多く、ほとんど最初から最後までついていくことができなくて、号令(先輩の左足からイチニイホイサで始まり…・•・・・登りはずっと掛け声を続ける)は常に田部井、相沢が先輩の足の動きに合わせて行っていたのを覚えています (二人には本当に感謝してます)。厳しい練習の内容については、他の体育会とは比較にならず、挨拶はもとより一つ一つの動きにも先輩の容赦ない鋭い眼光が光り、我々下級生の一挙手一投足をさらに硬直させたものです。そのおかげで、夜のミーティングが幾度となく開催されました。 ステージは合宿所の屋上、やや固めのコンクリートの上で、先輩からのあたたかい激所を、正座をして神妙に聞き入りました。闇夜に光る星座を見ながら心を癒し、先輩の激励に涙したものでした。試合では、部員数の少ない本学は少数精鋭をモットーに、個々人が持ち前の体力を発押し、あるいは同後の相沢のように、体力なくとも◎早い動きで相手を翻弄している者もいたりして、全体的に活気のある試合を展開していたように思います。団体で優勝できなかったのが心残り (団体ではリーグ戦ブロック2位2回、3位、4位、大学選手権大会3位 2回、4位、5位)ですが、個人的には4年の時に全日本3位に入賞した ことがよき思い出として残っています(ちなみに得意技は両足タックルです。おかげで左耳が落ちる寸前まで頑張りました)。 また、学業面では持ち前の要領のよさを発揮して、労することなく卒業することができました。が、同時に、自由な時間も手に入れて、一時はアルコール依存症(ただの”酔っ払い”)に陥り、選手生命が危ぶまれた時期もありました。しかし、友の看病よろしく、すぐに回復したのです。 本当に私は、学生時代に最高の同僚に恵まれました。群馬の田部井(現在:明治大学監督)、川島秀明(学連副委員長、新潟:巻農業高校)、相沢啓一(自称インターハイ 5位、北海道:旭川南高校)、吉田健悦(青森:三本木農業高校)等の協力を得ながら、よき先輩、可愛い後輩等とのレスリング生活を通して、人間関係の大切さを学ぶことができました。 何と言っても、当時の恩師である同じ郷里出身の(故) 原先生には、学業やスポーツだけでなく、人生訓のご高説までいただき、本当に感謝申し上げます。辛くもあり楽しくもあった4年間、明治大学には大変お世話になりました。一般学生であったら、こんな青春はしたくてもできないと思います(もう一度やれといわれたら困りますが・・)。今、社会人として地元の建設会社に勤務し、20有余年が過ぎましたが、当時の生田の木造校舎にあった道場、染を使っての懸垂(頑張りすぎて額を打ちつけたこともありました)や、道場のキャンバスをくぐってのマットつめ 掃除、練習後のコミュニケーションと称した「お好み焼き屋」「焼き鳥屋」 「すし屋」等での先輩や後輩との語らいは、終生忘れることのできない思い出です。そして、明治大学体育会レスリング部が、70周年の輝かしい 歴史を迎える中で、その1ページを飾る一人として過ごせたことを誇りに思います。同僚の田部井監督には、部員少数の中で大変かとは思いますが、今後ますます頑張っていただきたいと思います。