昭和55年 20年以上たっても鮮明によみがえる1年の時の記憶

明治大学レスリング部の体験談

昭和56年卒

西井正喜

明治大学レスリング部での4年間で、もっともよく思い出すことは、やはり苦しかった練習のことや合宿所での生活のことであるが、その中でも、特に1年生のときのことは、20年以上たった今でも鮮明によみがえってくることがある。 苦しかった練習の中でも、朝のランニングのことが特に印象に残っている。あまり長距離を走るのが得意でなかったこともあり、坂道ではいつも遅れていた。急な坂道や長い階段が多いのには嘆いたものだった。 路面がぬれているということで、朝練が中止になると、たいへんうれしかったものである。 食事当番は初めての経験だった。メニューを考えたり、ご飯の水加滅、風呂の湯加減、ハムエッグの焼き加減など、たいへん気を使ったことを思い出す。 門限に遅れて坊主になったこともあった。合宿所の屋上での正座もきつかった。 先輩の洗濯物を乾かすのに苦労したこともあったが、途中でコインランドリーができたのはありがたかった。

9月の合宿のとき、途中で合宿所をぬけ出したことは、苦しい思い出 として残っている。 1年生が終った時点で、大学の単位が14単位しか取れずにショックを受けたこともあったが、無事に4年間で卒業できたのはよかった。 苦しかったことばかりのように思われるが、いろいろ楽しいこともあった。土曜日に門限がなくなると、新宿までくり出して酒を飲んだりして、朝まで過ごしたこともあった。

合宿所の近くの飲み屋でホッピーを飲んだこと、食性で麻雀をしたこと、キャバレーに行ったこと、焼き肉屋や床屋のおっさんのこと、アルバイトのこと、などなつかしく思い出される。大会や合宿などでみんなと一緒にいろいろな所へ行けたのも楽しい思い出になっている。 いろいろなことが思い出されるのであるが、自分自身、肝心のレスリングが思ったような成績を上げることができず、悔いが残っている。2年生の途中から主務の仕事をすることになったが、この仕事を引き受けたことも、あとから後悔したものである。 引退して卒業が近づいたが、就職も決められず、明治大学の聴講生として教員の免許を取ることになった。

部活動の顧問をしてみたいというのも一つのきっかけであった。農学部と言うことで、理科の免許しか取れなかったことから、採用試験に合格するのは無理かもしれないと思っていたが、27歳の時に、三重県の中学校の採用試験に合格することができた。教員の仕事はレスリングの練習のきつさとはまた違ったきつさもあり、やめようと思ったこともあったが、現在も何とか教員を続けている。部活動では、レスリング部ではないが、女子バスケット部の顧問として、県大会に出場することもできた。 明治大学レスリング部が70周年と言うことであるが、入学する前は明治大学レスリング部のことをよく知らず、入学してから、金メダリストなど、数々のすごい選手を出している伝統のあるレスリング部であることを知って驚いたものである。