4年間のレスリング部生活
平成1年卒
竹沢 新吾
昭和60年4月入学、同期生は6人。3月上旬の2次3次合宿から参加。 4月まではお客さんでしたが、4月集合と同時に現実が待っていました。 夏までには学校(先輩の代返)や合宿所生活に慣れ、なんとか前期を終えることができました。夏合宿は2次構成に成っており、第1次合宿は山中湖セミナーハウスにてロード・ワーク中心、第2次合宿は秋田商業高校にて行いました。練習も辛かったですが、朝及び午後の練習後の買出し当番が非常に辛かったことを思い出します。当時は、現在のようにコンビニエンスストアもほとんど無く、買出しだけで2時間もかかった事も思い出です。 又、日本航空落事故といった非常に痛ましい事故が発生し、テレビ ニュースの死亡者名簿にOBと同姓同名が出ており、その後OBとは違う事が判明しましたが、先輩たちの間で合宿が中止になるとの噂が出た時は期待してしまった事も思い出します。 夏合宿は2年生沖縄県立読谷高校、3年生新潟県立巻農業高校、4年生時には私の出身地、富山県立高岡商業高校にて行いました。県内では、私立高岡第一高校にて近畿大学レスリング部、富山県立滑川高校にて日本大学レスリング部が合宿を張っていました。
3年生の終わりに次期主将と言う事を笠原先生から告げられた時は、その職責に対し非常に嬉しくおもった事を鮮明に覚えています。又、私の未熟さから夏のインター・カレッジ終了後、1年生・2年生から無言の訴えが有り、期待して頂いた先生・首脳陣の皆様方の期待を裏切る形となり、当時はずいぶん悩みましたが、今となれば貴重な経験をさせて頂いたと思っています。 学業については、先・同級生に助けられ、無事終了する事ができました。ここで笠原先生についての逸話が有ります。1年生の前期試験で私が担任の試験の出来が良くなかったと災原先生に相談した所、さっそく 担任教授の所へ出向いて頂いたのですが、その際、ズボンのポケットに手を入れたままだったそうで、担任教授から「それは人にお願いする態度ではない・・・」とのやり取りが有った話は、我々の中では有名な話です。 創立70周年を迎えることは、諸先輩方の努力や現役の選手がそれぞれ 伝統を受け継ぎ伝えて来た結果だと思います。 現在、郷里富山県にて仕事をしていますが、明治大学レスリング部に在籍した経験と自信が有れば、如何なる経済状況にも突き進む事が出来ます。 これからも明治大学レスリング部が発展するよう、心よりお祈りいたします。