平成8年 自己形成の大事な時期にレスリングと出会えた幸せ

3年間の主将経験から学んだこと

平成11年卒

森陽保

明治大学体育会レスリング部創立70周年おめでとうございます。 大学を卒業して早や4年。今思えば学生時代は何でもがむしゃらにできたような気がします。あの頃は、目標を達成するために自分に課した こと、それだけをひたすら一生命にやっていました。まだ25年足らずの人生ですが、あのように物事に熱中できた時代は、もう来ないのではないかとさえ思います。自己を形成する最も大切な時期に、レスリングを通して多賀先生、田部井監督をはじめ、諸先輩方に出会うことができた私は、本当に幸せ者だと思っています。 さて、私は平成8年の大学2年時に、部員不足から急遽主将に抜撮されました。必死になって務めたのですが、この年のレスリング部は散々な結果に終わりました。私には重荷だったのですが、その後大学3年時、 4年時も引き続き主将を務めました。この両年の部員の活躍は目覚しく、次に書くように誇れるものとなりました。 平成9年(大学3年時)には、新入部員が3名加わって部員は9名になり、1部Bリーグ復活を目指し、春合宿からリーグ戦前まで専修大学へ出稽古の日々を繰り返しました。その結果、1部Bリーグ・2部Aリーグ入れ替え戦で早稲田大学を彼り、1部Bリーグに復帰。ようやく明治大学で練習ができるようになりました。また、この年の合宿は縁起がいいと言われている沖縄を選び、国士館大学との合同合宿。前回の沖縄合宿後のインカレで上位に入られた先輩方が数名おられると聞いていたので、ゲンを担いだのです。合宿後のインカレでは、上位候補の一人を倒し、準々決勝へ進みましたが、準決勝で近転負け。差は1点でしたが、この1点に泣きました。このときの悔しさが、大学に残り、自分の納得のいくまでレスリングを続けたいというきっかけになり、今の自分があります。 この年の10月に慶応義塾大学日吉校舎で行われた六大学チャンピオン シップには、昨年の屈写を晴らすという気持ちで臨み、7階級を6名で戦って全勝優勝しました。法政大学に勝利できたことは、当時では価値のあるものだったと思います。試合後、先輩方に日吉駅近くで祝勝会を開いて頂いたことは、忘れることができません。

平成10年(大学4年時)の春合宿で、多賀先生は「今年はAリーグを目指す。最低でも1部リーグとの入れ替え戦」という目標を掲げられました。また、この年には部員が5名加わって14名となり、部全体に活気が出てきました。それでもスパーリングの数などを考えると、他大学での数多くの選手との練習が必要だと判断。その年度は同じBリーグで戦うことになる専修大学には手の内を明かさないようにするため、国士舘 大学へ出稽古に行き、強化に努めました。この年からリーグ戦は8階級 へと変更になり、すべての階級でメンバーを組むことができたので、まず精神的にゆとりができました。とはいっても、130キロ級には85キロの 1年生が出場したのですが・・・。 前年度、2部Aリーグから昇格した明大は、1部Bリーグの8校中8 位。リーグ戦初日から上位校との戦いが始まりました。初戦の青山学院 戦は5-3で勝利。接戦になると思われていましたが、部員一人一人の頑張りにより好結果を出すことができました。中央大学には7-1という大差で負けはしましたが、1点差や延長戦の接戦でした。3戦目は前年度まで出稽古に行っていた専修大学だったので、試合前、多賀先生から部員に機が飛びました。対戦相手を見て明らかに差がある場合には、得失点差を考慮に入れて試合をすること、フォールやテクニカルフォールをされないこと、たとえ負けるにしても点数を取ることなどでした。 激戦に次ぐ激戦で、軽量級3階級を失いましたが、その後の4階級で取り返しました。この時点で4-3とリードはしていましたが、最重量級が残っており、勝敗は1年生にかかっていました。祈る気持ちで部員一 同が1年生を応援しました。負けはしたものの、ポイントをとって負けたため、得失点差で専修大学に勝利することができました。数年ぶりのことであり、部員の中には抱き合って喜ぶ者もいました。試合後のミーティングでは、多賀先生の目に光るものがあり、私たちも全員満足感に浸っていました。また、専修大学の工藤監督からも「よく頑張った」とねぎらいの言葉を頂き、心底うれしかったことを覚えています。部員が一丸となって一つの目標に向かうということは素晴らしいことだと改めて思いました。この後、残りの試合を全勝し、Bリーグ2位で通過。目標であった1部Aリーグとの入れ替え戦に臨むことになりました。しかし、入れ替え戦まで行ったことでホッと一息ついてしまったためか、7-1という大差で敗れてしまいました。

大学生活最後のリーグ戦では「Aリーグ昇格」、そして「古復活」という大きな目標こそ叶えられませんでしたが、練習もままならない部員 5名の状態から始め、リーグ戦出場の危機を乗り越え、さまざまな問題に対応し、創意工夫しながら務めた主将としての3年間でありました。 このような経緯から、明治大学に対する愛校心よりも、明治大学体育会 レスリング部に育てられた愛都心の方が強いのです。この経験を生かせる職場に就き、後輩の指導をしていきたいと考えるようになり、今日に至っています。しかし、ただ単にレスリングだけを重視するのではなく、社会に通用する人間、そして文武両道を目指せる人間を育ててみたいと思っています。やはり、今も部員不足は続いていますが、部員一人一人が自覚を持ち、例年になく良い雰囲気の中で練習をしています。すぐに結果を出すことは難しいことですが、先輩方には「古豪復活」を長い目で見守っていただきたいと思っています。 最後になってしまいましたが、4年間を共に過ごした同期を紹介します。この同期がいなければ、明治大学体育会レスリング部での素晴らしい思い出はなかったと思います。

●黒沢宏明

主務で力を発揮した。彼のアイデアで部員の父母から水道・光熱費を集金し、余った金で家電製品等を買い揃え、寮の環境を素晴らしいものにしてくれた。現在、地元群馬県に帰り小学校・中学校の非常勤講師。

●神村正俊

生活態度がいい加減で不潔。酒は強い。ある晩飲みすぎ、翌朝の熱習で吐きながら走ったことは有名。現在、地元群馬県に帰り、公務員を目 指して勉強中。

●細越吉剛

口が悪く頑固であるが、思いやりがあり、神村の教育係であった。彼がセコンドにつくと声が大きいので、的確な指示がよく聞こえた。現在、地元青森県に帰り、青森銀行に勤務。

●渡辺健

一般部員として入部。第1回の六大学チャンピオンシップに出場し、初めての減量と試合に苦しみ、「次の試合、気持ち悪くて出たくない」。 この言葉は有名。また、大学4年時の新潟合宿中にもかかわらず、練習後、夜遅くまで食堂で宅建の勉強をしていたことも有名。その後、見事 合格。現在、住商フルーツ(株)に勤務。