昭和24年 昭和22年、目にしたものは無惨な道場だった

レスリングとの出会い、そして思い出

昭和25年卒

堀口 武

私は昭和18年、専門部入学と同時に憧れの柔道部に入部した。早速地下道場に案内され、先ず驚いたのは三船師範をはじめ八岳、葉山、小田先輩等、柔道界の重鎮が揃っておられたのにびっくりした。そして、稽古が始まると散々投げられ、先輩達の強さを痛感させられた。 毎日激しい稽古が続いていたが、その柔道場の手前がレスリング場で、ここでも部員達が懸命に練習に打ち込んでいた。私はここで初めてレスリング競技を見た。

  田舎育ちの私は、それまでレスリングを全然知らなかったか、パンツ1枚の競技が珍らしく、興味をもった。そして厳しい柔道の練習後、辛さを癒す気持もあってか、新人同士で面白半分にレスリングの見真似の練習を繰り返していた。これがレスリングの初歩だったのかも知れない。
 
  そのうち戦争も日ごとに厳しくなり、先輩達が次々と出征し、賑やかだった道場も段々淋しくなっていった。残された我々も勤労動員に駆り出され、練習ができる状況ではなく、自然と休部状態になった。私も昭和20年5月、久留米陸軍士官学校に応召され少しばかりの軍隊生活を味わった。
 
 その後の昭和22年、商学部に復学し、早速懐かしい地下道場に行ったが、目にしたものは畳もなく、埃にまみれた無惨な道場だった。当時は東京も廃墟の街と化し、世の中も荒んでおり、食糧難、住宅難の苦しい時代だった。そんな中、一人二人と復学してきては自然と道場に集まるようになった。そして戦前のように競技を再開したい望みは一つで、柔道、レスリング部員が一緒になって古畳をかき集め、古びたキャンバスを被せて何とか練習場を作った。

 その頃道場はGHQのパージ中で、柔道部の部活動は禁止されており、部員の多くがレスリング部員と一緒に竹内、村田先輩達の指導を受けながら、レスリングの練習に取り組むようになった。私もその一人であり、新しい競技だけに苦労も多く、苦しい練習の毎日だったが、競技ができる喜びもあった。

 当時は部員も多く強い明治だったので、青山のレスリング会館に行くのも楽しみだった。特にフェザー級の富永君やライト級の霜鳥君は常勝者で、道場横の壁に“祝優勝”のビラが常に張り出されていた。

 こうした懐かしい想い出を残しながら、私も25年に卒業し、郷里の岐阜県庁に勤務して2年ほどした頃、県の保健体育課長から岐阜県にもレスリング協会を創るよう指示された。早速、愛知県の会長だった河野先輩や水谷監督に相談し、いろいろと指導を受け、柔道協会や相撲関係者の協力を得ながら、昭和28年8月、ようやく岐阜県レスリング協会を設立する事ができた。私も副理事長に選任され、組織の強化と選手の育成に努め、岐阜国体が決定したとき、選手強化委員長に任命され35年には明大レスリング部の岐阜合宿を企画し、地元選手との合同合宿を行い、岐阜の選手強化と同時に、明大の学生達にも想い出を作る事ができた。幸い国体には好成績で優勝し、面目を保つ事もできた。その後、岐阜で育った優秀な高校選手が明大のユニホームで活躍してくれた事を我が事のように嬉しく思った。
 
 昭和18年、地下道場で初めてレスリング競技を知ってから50有余年、未だ岐阜県の顧問の要職にあってレスリングに携っているわけで、レスリングとの縁の深さを痛感している。この間、日本レスリング協会の評議員や理事も務め、昭和40年6月にイギリスのマンチェスターで開催された世界選手権大会には、フリースタイルの全日本監督として派遣され金2個、銅2個の成績を挙げ得た事は感激だった。また、昭和43年のメキシコ、昭和47年のミュンヘンオリンピックには国際審判員として参加し、多くの国々を見聞できた事も誇りに思っている。
 


 戦後、空腹を抱え、埃の舞い上がる練習場に水を撒きながら、猛練習に明け暮れた当時の事、厳しかった先輩達の事など、今では忘れることのできない懐かしい想い出である。当時を想い浮かべるにつれ、低迷の現状を一刻も早く打破し、伝統と実力を誇った明大レスリング部本来の姿に立戻るべく、一層の奮起を期待したい。

〈昭和24年度 最上級生部員〉
 和泉邦俊(フライ級)
 畠中 淳(フライ級)
 星野辰夫(バンタム級)
 堀口 武(バンタム級)
 若杉 巌(フェザー級)
 宮崎博通(ライト級)
 古賀愛人(ミドル級)