昭和28年 見学の町の人に「人間じゃない」と言わしめた猛練習

黄金期への足がかりを築き上げた自負

昭和29年卒

平松 力

戦後も5年余り、各地より、列車に乗るための切符は前日に行列で購入。目的の列車に乗るのに行列、乗車をしても通勤電車なみの超満員、そして東京駅に到着。疲労困憊を隠して、駿河台の明治大学地下道場に行く。

 当時は食糧難。役所からの配給制米穀通帳を持って先輩に同道、葛飾堀切の明大「白雲寮」に入寮。建物は古い。以前は料亭で、池山水をコの字型に囲んで建物がある。手入れが行き届けば2階からの俯瞰は絶景であろう。部屋数は大小併せて約20室、寮生は約50名で寮費は安い。入寮難だがレスリング部だけはなぜか優先権があったようだ。食事は自炊、主食料は米7日分とパン・麺類の券7日分、残り芋・小麦粉で「水団」にして食す。不足の食料は「闇米」で補充。1ケ月の生活費は3,000円あればどうにか賄えた。夜の団欒はギターを奏でる者もいるが、ラジオが唯一の憩い。

 街は下町で人情味溢れている。繁華街ではない。飲み屋が2~3軒、他に邦画専門の映画館1館で常に盛況。特に近所の質屋の主は、学生証を提示すればパンツ1枚で融資してくれる粋人だ。休暇ともなれば、布団を倉庫替わりに持って行く者もいる。

 練習は過酷。15名ほどの入部者のうち、レスリング経験者は橋本秀顕君のみで、末経験者ばかりの新規集団。3日間はお客様扱いで、4日目から体力作りのトレーニング。体の輪(たが)はばらばら、笑うことさえままならず、通学時の御茶ノ水駅の階段昇降は、脚から頭の天辺までの激痛、まさに業苦。
 
 指導するのは、戦前の黄金期を形成された先輩で、戦後、レスリング部復活のため再入学をし、新入部者を1年で一流の域までに鍛え、2年目にチャンピオンを輩出(富永利三郎、霜鳥武雄)するような猛練習。伝聞では、授業終了後の夜間も血尿が出るほどの激烈練習を耐えてきた選手で(戦前・戦後復活の逸話は当時のご本人である、前OB会長村田恒太郎先輩のお説を拝聴するのが至当)、富永主将号令の猛烈指導。苦痛を耐え、夏ごろにはどうにか体もなじみ地獄も半ば。夏期合宿(福島県小名浜)での練習は熾烈の極み。甲斐あって、秋季リーグ戦では選手、補欠に一部名を連ねる者も出るほどに技術が向上した。

 1952年・新学期、監督水谷光壮先生のご尽力により、農学部内に「生田合宿所・道場」が竣工。白雲寮より移転。自炊生活からも解放。この年の新人生も多数で、合宿所も活気あり。一番奥にホールがあり、そこで卓球に興じたり、電蓄も設置されたので、夜の一刻をジャズ音楽鑑賞、あるいはダンスに興ずる者もあり。会合・納会等もここで行い、後年の優勝祝賀もこの場を利用した。この年、霜鳥武雄主将となり、練習方法も早朝ランニング実施。練習は本校地下道場を主としたが、夜間、生田道場で個々に斯道研鑽する部員もあり、強くなるのも至当なり。

 年も変わり、竹中延好主将、前田昭主務、平松力道場取締役、石橋良光合宿取締役の新役員となり、「優勝」を主題宿命と課し、3月に生田道場での合宿。練習の方法、内容も工夫し、最上級生の橋本秀顕、其木基宏、早川康秀、渡辺協(旧性 西山)には特に積極的に指導を願い、練習時の監視注意に関口通、藤田安彦が任につき、熾烈な練習を極めた結果、昭和24年、井削光司主将時、春季関東学生リーグ戦に優勝をして以来の春季優勝を達成した。
 
 夏期合宿は、先輩で政治家の三木武夫先生のご仲介で、阿波・池田高校にて水谷監督、コーチ霜鳥武雄先輩以下約45名の部員が参加。この夏、戦後最高の暑さと言わしめた炎天下で、午前は運動場でのトレーニング、午後は体育館での休みのない練習。全員他の者に遅れるのを嫌い、貧欲さが前面に出て部員の技術も桔抗。それでもなお霜鳥先輩の叱咤激しく、見学の町の人々が「あの人たちは人間でない」と言わしめる練習に耐え、その結果、秋季関東学生、全日本学生選手権に優勝。全国制覇達成。以後数年間にわたっての黄金期の黎明であったと自負し、それを今も誇りに思っている。

〈昭和28年度最上級生部員〉
 橋本秀顕(フライ級)
 前田 昭(フライ級)
 竹中延好(バンタム級)
 其木基宏(バンタム級)
 関口 通(バンタム級)
 藤田安彦(バンタム級)
 早川泰秀(フェザー級)
 平松 力(フェザー級)
 石橋良光(ライト級)
 渡辺 協(ライト級)