昭和30年 ロープを腕だけで昇り降りして鍛えた新人時代

レスリング魂で病魔をフォール

昭和31年卒

村石冨士夫

私が体育会レスリング部のドアを叩いたのは、昭和27年3月上旬でした。新入部員となる私達を迎え入れてくれる先輩は、旧制大学の6年生と新制大学の4年生、そして3年生になる先輩で、緊張と驚きで挨拶の後は脱兎のごとく部室を後にしました。
 
 翌日から練習に参加しましたが、体ができていない私は、マット・サイドで鉄アレイやバーベル、体操等で体を鍛えました。レスリング部の練習に参加して、数日後に3週間練習を休むことになりましたが、岡本平治先輩には我が子でも経験することができないことをして頂きました。浅川先輩にはレスリングの基本動作を学び、練習することで汗を流し、レスリングがボクシングよりも楽しく感じるようになりました。築地の岩瀬さん(明学の岩瀬後輩の兄)から私のことを聞いていた主務の田口先輩が明大入学に尽力して頂き、その叱咤のおかげて厳しいトレーニングにもついてゆけました。
 
 私が入学した時には、バンタム級飯塚、諸戸と、フェザー級笠原、ライト級黒田、拓大から小倉(国)君等ルーキーが多く、道場の隅で先輩から声をかけられてマットに上る毎日でした。川崎市東生田にレスリング部合宿所ができ、練習場も大きいのが完成しました。天井の梁から垂れている太いロープを、脇をしめて足をつかわないで昇ったり降りたりするのがきつかったのを覚えています。
 1年生の時、関東大学のリーグ戦が終ってからの夏季合宿は、伊豆大島の元町にある藤田先輩が経営する柳川館で行いました。東京竹芝桟橋を夜出航すると、翌朝には大島の岡田港に着き、そこからバスで元町に到着すると、すぐに午後から学校の体育館で練習が始まりました。午前の練習では、三原山の登山口をスタートに、同ウエイトの部員を背負って登り、帰りはかけ足でゴール。午後はマットの上で練習し、暑さとトレーニングでヘバりはしたものの、練習後は海の眺めと潮風が涼しく、頑張ることができました。
 合宿が終了して元町港から伊東港へ。私は船尾で船員さんが魚釣りをしているのを見ていましたか、途中私が交替して“鯖”を釣り上げることができました。
 2年生の時の合宿は大阪市枚方でしたが、私は家庭の都合で3ケ月休部しました。
 3年生の合宿は徳島県阿波池田の池田高校で、のちに蔦監督(ひげだるま)が巨人に入団した水野雄仁投手を擁し、フレッシュナインで全国制覇して有名になったところでした。
 4年生の時は、新潟県長岡市悠久山の山林亭で、午後のトレーニングは長岡高校でした。午前のトレーニングは悠久山の市営プールで行いましたか、つめたい水と水泳に苦しみました。

 2001年9月28日、グレート仙台C.C.でラウンド終了後に脳幹小脳梗塞で倒れ、28、29日の両日が生死の境と言われましたが、私は禁煙していましたので、動脈硬化による神経障害や血流障害、脳内出血を防ぐことができました。DMグループの5人の医師からは「よかったですね、生命をもらいましたね」と言われ、リハビリテーション部肢体不自由科の先生方からも、68歳にしては身体にバネかあると言われました。若い時にレスリングをしていたお陰で、脳梗塞をしても徐々に回復しています。5月11日、仙台信用金庫のコンペでザ・仙台C.C.に、5月18日には七栄サークルで青葉台の仙台C.C.に行きます。
 “下手な大振り脳梗塞も=国立仙台病院院長・桜井先生”と河北新報に報道されたこともあり、もう本格的なゴルフの練習はしないで、ウォーキングと素振りとバッティングだけに専念します。そして、これからの人生、まだまだ頑張ります。

〈昭和30年度最上級生部員〉
 飯塚 実(バンタム級)
 村石冨士夫(バンタム級)
 諸戸祝生(バンタム級)
 吉岡善作(バンタム級)
 矢田良彦(フェザー級)
 笠原 茂(ライト級)
 黒田 汎(ウェルター級)