昭和31年「芸者ワルツ」を歌いながら先輩の背中を流した風呂当番

頑張り抜いた同期の桜

昭和32年卒

渡辺和義


昭和28年3月初旬、我々同期の入部希望者20数名が、川崎市生田に新設されて間もないレスリング部生田合宿所に集合した。時あたかも春季強化合宿たけなわの頃であった。

 我々は強化合宿に参加しながら、先輩引率のもと、合宿所から志望学部の入試に行って来た。名前と受験番号だけはハッキリと書いた記憶がある。同期生20数名のうち、高校でレスリングを経験した者は私と、新 潟から横浜に転居したため、新潟商業で1年間レスリング部に席を置いただけという飯田君のわずか2人。他の人達は高校時代に柔道や相撲をやってきた素人ばかりで、レスリングの練習が想像以上に辛く、1週間もすると全員死んだように疲れた顔になっていた。それでも3月中は入学が確定しないので、お客様扱いであったように思う。

 4月に入って入学が確定すると同時に新人教育が始まり、厳しさは一段と強く感じられるものとなった。高校時代2年間チャンピオンという戦歴を待っていた私は、入学直前の3ケ月間、痔の手術のために入院生 活をしており、退院と同時に合宿所に入った。そのため体は鈍り、懸垂が1回もできないほど衰弱しており、人に言えない悔しい思いをした。4月中旬頃、気がつくと20数名いた同期生か10人ほどに半減。さらに卒業時には諸々の事情もあって5入ほどになっていた。
 
 初めての生田合宿所での練習は、世間と遮断されて刺激がなく、生活が単調で変化に乏しく一日が長く感じられた。相棒を背負っての階段登り競争は、負けると更に1回のおまけかあって辛いものだったが、これ が心身共に強く鍛えてくれた。練習後、当時流行した「芸者ワルツ」を歌いながら先輩の背中を洗った風呂当番も、忘れることのできない思い出である。

 夏の強化合宿は徳島県の池田町であった。お寺の本堂で寝泊まりし、練習場は野球で有名な池田高校の体育館であった練習は特別参加の霜鳥先輩の指導もあり、厳しいものであったが、これも慣れるとあまり苦にならないほどに我々も成長していた。練習後、学校裏の吉野川での水遊び、宿舎に帰ってから炊事手伝いの地元女子高校生との会話、夕食後のカキ氷の味などが忘れられない楽しい思い出として残っている。合宿の厳しい一日は、近くの映画館の閉館時に流れる鶴田浩二の「ハワイの夜」を子守歌に終わった。

 我々が最高学年となった昭和31年夏季強化合宿は、神戸市生田の布引山荘を宿舎兼練習場として実施した。コンクリート床に直接畳を敷いたところでの15日間は、まさに骨身に応えるもので、タックルで落とされたり投げられたりすると、涙が出るほど痛かった。しかし、山荘付近は観光地で近くに滝もあり、ロードワークは毎回コースを変えて景色のよい所を走ることができた。食事は、三ノ宮駅前の穴門亭という料理屋の 主人が、乗用車で「エライコッチャ、エライコッチャ」と汗を流しながら運んでくれた、本職の作るおいしいものであった。

 合宿の中日には、休養として六甲国立公園を観光することもできたし、山荘の持主でスポンサーでもあった南さん経営のサウナ風呂に、全員が交代でご招侍いただいたことは、辛い中にも楽しい思い出となっている。この合宿にあたり、関西地区の先輩の皆さんに大変お世話になったことを、厚くお礼申し上げるものであります。

 終わりに、学生時代に歌っていた歌の文句に「無理な勉強はほどほどに、体を鍛える明大生……」とあったが、明大レスリング部での厳しい練習で鍛えられた強靭な肉体と不屈の精神力は、社会人となってからも立派に通用したことをご報告申し上げると共に、深く感謝するものであります。

〈昭和31年度最上級生部員〉
 飯田和夫(フライ級)
 永淵義馬(フライ級)
 門真邦光(フェザー級)
 渡辺和義(ライト級)
 菊池一郎(ライト級)
 久保田亨(ライト級)
 尾形 旭(ウェルター級)
 丸山影治(ライト・ヘビー級)