昭和32年 ”春の雪辱”に燃えた伊豆大島での夏期合宿

3連覇のあとに初めて味わった屈辱

昭和33年卒

阿部一男


新潟明訓高校の1年生よりレスリングを始めた私は、昭和29年、数多い優秀な先輩を慕ってこの明治大学に入学いたしました。レスリング部に入り、一日も早く先輩達のように世界の第一線級として活躍するとと もに、学生生活を有意義に楽しい思い出として過ごす事を第一の目標とし、練習に励みました。入学後、一般学生と違い、私達は部員ばかりの合宿所に入り、新人時代は二等兵とおなじく、涙を流さない日のない苦しい毎日でした。中でも一番苦しく、また思い出に残るのは、1年に2回の強化合宿です。私達が4年生になりましても苦しい毎日でしたが、それ故にまた楽しい思い出にもなっています。
 
 春合宿参加は50名という大所帯。早朝のヒンヤリとする大気の中を、朝6時というせいか、まだ夢心地で走るマラソンで一日が始まります。冷たい大気を胸一杯吸い、草の葉に宿る露を踏んで走る気持ちはすがすがしく、筆舌には表す事のできぬほどです。どんな運動でもスピード、体力、勘を必要とします。これを補うために監督は走る事を第一主義としておられ、朝8キロの駆足でした。起床と同時に、もう早く明日の朝にならぬかと、カレンダーに印をつけるのか楽しみでした。1日3回の練習は、新人にとっては息の抜く事のできない忙しい毎日です。午前、午後3時間2回の練習では、午前中はハードトレーニングで体力を作る事を主とし、中でも百数段の階段を、同じ体重の人を背負って上り下りする運動をはじめ、逆立ち、腕立てなど、戸外で行う運動には参りました。午後はマットの上の練習で、夏はビニールのシートに汗が浮き、頭から足まで水を浴びたようにびっしょりで、新人は常にマット掃除と先輩の汗ふきで終ります。そのため、練習が終えると緊張から解放され、一辺に体が綿のような疲労を感じ、外出する元気もなく、夕食をすませると早く寝床に入るのが唯一の楽しみでした。

 ヘルシンキ、メルボルンオリンピック共日本レスリングは成績もよく、一般の人のレスリングヘの関心も高くなって来ました。私が入学した年、我が部は春秋とも団体戦に優勝し、その喜びを味わいました。入学以来3連覇で、来年は4年目と意気込み、新年を迎えました。主将という大任に自分が推され、いかにして責任を果たし、先輩からの伝統を守り、部員を指導していくか・・・部員一同一丸となって団結し、協力して進まなければと、春の強化合宿に向かいました。

 しかし、怪我人が続出し、部員の健闘で決勝に進出したものの、中大に5対6で惜敗し、初めて敗退の哀しさを味わいました。これも、私の世界選手権(トルコ)参加で、部員の調子もわからずに組んだメンバーの失敗と、相手を軽くみすぎ、勝つものと思っていた軽率さが敗因でした。
 
 敗れて1ケ月後、秋の大会に備え、“春の雪辱”を目標に伊豆大島で夏期合宿に入りました。1日3時間の練習を連日2回、「今度こそは」「今度こそは」と部員全員が私に協力し、頑張ってくれたお陰で、合宿後の全日本学生選手権では他校を圧倒し、5つのタイトルを奪いました。こうして結実した部員の努力は、次の東日本王座へと向かい、1、2、3回戦は順調に勝ちましたが、決勝でまたも宿敵中人に5対6で敗れました。大試合に不慣れな新人の起用が敗囚でした。再び敗れた我々に希望をもたせるのは、シーズン最後の全日本選手権です。8つのタイトルを制覇し、学生生活の最後を飾りたいと思っています。

 私たちも明年度は社会人となり、社会の一隅に放り出されるのですが、部生活で得たものを生かして荒波を乗り切り、社会での優勝を目指していきます。

昭和32年
《体育会誌創刊》によせた文章より転載

〈昭和32年度最上級生部員〉
 寺田忠司(バンタム級)
 林嘉 治(バンタム級)
 味方正宏(フェザー級)
 鴨井恒夫(フェザー級)
 伊藤正雄(フェザー級)
 金田康雄(フェザー級)
 国井清純(フェザー級)
 阿部一男(ライト級)
 織部公博(ウェルター級)
 木村 勝(ライト・ヘビー級)