昭和34年 朝日を背に立つ八海山を見た時にこみ上げた口惜しさ

劣等部員強化合宿の記

昭和35年卒

渡辺四朗(旧姓外川)

私は1956年(昭和31年)2月18日に、川崎市生田の合宿所に入るため、新潟県立長岡高校同期の山口哲平君と二人で上京しました。上野駅では高水春雄、斎藤博文両先輩が迎えて下さいました。途中、「腹は空いてないか」と言われ、新宿西口のバラック街の鶴亀食堂で天丼をご馳走になり、10時頃合宿へ着いた夜の事は忘れられません。合宿所は暗がりでよくわからなかったのですが、春の強化合宿中で寝静まっていました。当時伴淳三郎の映画「二等兵物語」の兵舎そのままの建物でした。ここで学生生活が始まるのかと思いますと、かなり失望したような記憶もあります。

 その夜は斎藤先輩の布団に、山口君と背中合わせに休ませてもらいました。あの夜は緊張していた事もありますが、窓から差し込む月の光でなかなか眠れませんでした。そんな中、夜中に奥の方の布団をパッとはねのけ、窓を開けたかと思うと、敷居に立ち上がり、庭に向って放尿し、また布団にもぐり込んだ先輩の姿が今でも瞳に焼きついています。「大変な所へ来てしまったなぁ」とまんじりともしないうちに、「起床!起床!」と大声で号令がかかります。何か何だかわからずぼんやりとしていると 「君らは今はいいよ」と言われ、ホッとしたものでした。
 
 私はレスリングの経験など全くなく、霧鳥先輩に憧れて甘い夢を見て入ったものですから、2月の朝6時半の寒い中、「起床」の声と共に起き出して行く先輩たちの体格を見た時、「これは駄目だ」と正直思いました。朝食は麦飯、その後、まだ入学の決まっていない新人ばかりの部屋に移れと言われ、その部屋に入るとまたびっくり。私と同年の新人たちの耳が、すでにクシャクシャに崩れているではありませんか。ここでもまたガッカリさせられました。

 新人の教育係は笠原茂先輩でした。初めて経験する合宿所生活を少しでもリラックスさせようと、当時流行していた春日八郎の「別れの一本杉」をみんなに覚えさせ、新人たちの不安やさびしさ、緊張を少しでも紛らわそうと気を遣って下さっていた事も、あの頃の思い出です。
 
 さて、もうひとつ新人の事について忘れられない事があります。それは北海道出身のS君の事です。クラスは重量級、体躯は金太郎の再来、全てが分厚く弾丸のような体の持ち主でした。聞くと前年の入学をしくじり、1年間親には入学した事にして、合宿所で浪人をして今年で2年目との事。当時わが校でも時代の趨勢で、高校の有名選手でも入学か難しくなって来ていました。いろいろな学部を受けても合格できず、5月のゴールデンウィークの頃、練習帰りに新宿で乗りかえる時、「四朗、たまには飲もう」と、いつも快活なS君が、いつになく湿った声で誘うのです。私は子供で酒の味などわからなかったのでありますが、断りもせずついて行きました。飲み出してしばらくした時、S君が「俺、故郷へ帰る事にしたよ」と寂しそうに言います。私は慰める言葉も思いつかず、息苦しいような思いで黙り込んでS君の横顔を見つめていました。今思えばあんなに深刻だったあの日の事が、青春のほろ苦いなつかしさとなって思い出されます。

 春の合宿が終わり、お茶の水本校道場で練習が始まると、20人以上いた新人は12人に減っていました。しかし、その事を先輩たちは誰一人口にしませんでした。私もS君が北海道に帰ってから、レスリング漬けの毎日が疎しくなって、山口君に「長岡へ帰って、来年また別の大学を受け直すよ」と、何度弱音を吐いた事か。その度に馬鹿にされたり、叱られたりの状態でした。

 一度などは本当に退部しようと決心し、上野発23時50分(今でも覚えています)最終の夜行列車に乗り、長岡へ向かったのでありますが、朝の6時頃通過する六日町で、朝日を背負って立つ八海山を見た時、私の弱音を嘆く母の顔や、兄たちに馬鹿にされる口惜しさがこみ上げて来て、長岡の手前の小出駅で下車し、合宿所に舞い戻った事もありました。

 1年生8月の合宿は、神戸市にある布引きの滝近くの「布引山荘」でした。古寺の座禅堂だったような建物で土間はコンクリート、場所は現在の新幹線新神戸駅のすぐ裏200メートルくらい上かと思います。到着して全員が集まったその夜の事は忘れられません。夕食の準備も設備も何もないのです。7時頃になると、OBが手配してくれたとおぼしき乗用車が何台も来ました。それに乗り込むと旧国鉄神戸駅近くの「穴門亭」なる食堂に連れて行かれ、かつ丼を喰ってその夜は終わりでした。私ら1年生は何も考えず呑気なものでしたが、主将の渡辺和義先輩やマネージャーの国井先輩など、どんなに走り回って準備不足を補われたのかと思うと、笑い話ですまされないほどのご苦労があったろうと思います。

 練習の厳しさはいつもの通りで、改めて記するまでもありません。夜はコンクリートの土間の上に古畳みを敷き、その上にビニールシートを敷いた道場の上で眠るのです。疲れですぐに眠り込むのですが、蚊にだ けは泣かされました。大阪からも先輩が入れ替わり立ち替わり毎日来られ、竹中先輩は1、2年の半分を引き連れて神戸の町ヘロードワークです。帰りの山登りのきつさ、坂道でのダッシュの繰り返し、竹中先輩は 先頭で走っておられました。道場へたどり着くとスパーリングが始まるのですが、本当に地獄でした。当時メルボルンオリンピックのナショナルチームの強化合宿中で、飯塚實、笠原茂両先輩はじめ強化選手が欠け ていただけまだよかったのかも知れません。それでも飯田、寺田、林、諏訪と、キラ星の如くいた先輩と目を合わさぬよう苦労した毎日が思い出されてなりません。

 夏の合宿が終わり、本校道場に顔を見せた1年生はまた半減し、6名 になっていました。石倉俊太君、斎藤正雄君、日比野功君、山口哲平君、 新井田偵一君、そして私。この6名が卒業まで残ったのです。

 1957年(昭和32年)、2年生の時の合宿は伊豆大島でした。宿舎は元町 の大きな旅館「柳川館」でした。オーナーの藤田先輩は柔道部のOBで、戦前は米国で活躍されたのだとお聞きしました。私より3年下の大島君の叔父上です。ここでは前年と違い、住と食の苦労は全くなく、道場は小学校の体育館で練習専一でした。

 主将は阿部一男先輩でした。この人はどうしてこんなに走らせるのかと思うほど、我々を走らせました。コースは三原山の登山コースです。隔日に頂上の展望台まで走るのです。それがない時は火山灰の黒砂の上でダッシュの繰り返しです。午前中は体力トレーニング、午後からスパーリングでした。たったひとつの楽しみは海水を引き込んだプールでの競泳です。そして、防波堤の先端から反対側の先端への100メートルほどを泳ぐのです。合宿中2回ほどありました。

 2年生になって、少しばかりレスリングの面白さがわかりかけて来た頃、1年下に入って来たバンタム級の新人3人組に愕然とさせられました。石沢二郎君、田村英司君、大橋弘次君です。特に石沢君は入学して間もなくモスクワで開催された世界青年友好大会(ユニバシアード)で優勝するのです。彼等3人を見て「ああ、俺もこれで先が見えた」と、2年でそう悟ると急にレスリングが楽しくなって来ました。以来道場へは誰よりも出たと思います。

 1958年(昭和33年)、この年の夏季合宿も伊豆大島「柳川館」でお世話になりました。主将は諏訪一三先輩。この人も徹底して走る人でした。諏訪さんは青森県八戸の東奥義塾高校のスキー部で、クロスカントリーの選手だったと聞いています。私はこの諏訪さんと3年間、道揚でご一緒するのですが、スパーリングの厳しさと回数だけは私が一番多かったろうと思います。一時は「諏訪さん、飯塚さんの準備体操係」とまで言われたくらいです。私か好んでパートナーをお願いしたのではないのです。むしろ逃げ回っていたのですが、目が合うと「オイ、行こか」と声がかかるのです。

 この合宿は私にとりまして思い出深い合宿でした。何とか3年間やって来た事で褒美の意味もあったのか、「四朗、フライ級に体重を落とせば国体に推薦してやるよ」と飯塚先輩に言われたのです。私はそれまで3キロくらいしか体重を落とした事がなかったのですが、フライ級のリミットは52キロですから8キロ落とさねばなりません。そして、この合宿で6キロ落として54キロにし、試合前に最後の2キロを落とそうと体重調整しました。結局、この合宿で目的の54キロまで落としたことで体の感度もよくなり、充実した気持で合宿を終わる事ができたのです。

 1959年(昭和34年)は、翌年にローマオリンピックを控え、緊張した年でありました。主将は石倉俊太君です。この年の夏季合宿は名古屋商科大学の合宿所を、楓先輩のご好意で提供して頂きました。4年生最後の合宿は不思議に覚えがないのです。唯々暑かった事、これに尽きます。4年間の学生生活を思う時、やはり合宿所での楽しい思い出、練習の辛さか浮かび、今は全て古い活動写真のフィルムが音を立てて回転しているような気がしています。父は私が大学を卒業する秋頃、「何も勉強しなかったのだから、大学院にでも残してもらうようお願いしてみようか」と真面目な顔で申しました。今思えば父の親心そのものだったのでありますが、あの時一目散に社会に出たことが結果的によかったのか悪かったのか、今となっては比べようもない事でありますが、私の人格の8割は明治大学レスリング部で培われたものと確信していますし、その事を誇りとさえ思っています。

〈昭和34年度最上級生部員〉
 山口哲平(バンタム級)
 渡辺四郎(バンタム級)
 日比野功(バンタム級)
 斉藤正夫(フェザー級)
 新井田植一(ライト級)
 石倉俊太(ミドル級)